◇農に生きる

 
本文

種の起源土の中日光と風植物の環境作り苗の一生百姓の損得勘定

流通販売農業を始めて食の安全ゆとり出会い経営

社会私たちの望むもの田舎の時間都会の時間食生活改善十箇条

食育スローフード人として感謝新資本主義生きるあとがき1

トキにみえる日本の農業の近未来土と植物にパワーを頂いて認定農家?

食品添加物槌田劭さん農業が立ち向かうことになる課題鳥インフルエンザ

あとがき2

 

僕が百姓になろうと思ったのは、ただの偶然だったように思う。でも、ある意味では必然であったと言えなくはない。潜在的に、晴耕雨読というか、自然のままに・・・というか、出来るだけ人間らしく・・・というかそういう生活に憧れを持っていた、その意味では必然であったといえるのかもしれない。でも、田舎の兼業農家に生まれ育った僕は、百姓の辛さ、百姓の恵まれなさは、世の3Kといわれている仕事の中でも、「農と生きる」ことは何か最も割に合わない仕事のように思えていた。祖母は小さな農地にいろいろな野菜を植えて、本当に死ぬ一週間前まで畑で働いていたし、非農家から嫁いできた母は慣れない畑や田んぼの仕事で両足を痛め、変形股関節の手術を両足ともした。父は忙しい仕事の合間を縫うように、休みの日でも田んぼに出た。父は亡くなってもう13年になるが、農地を息子の僕に残すことが、サラリーマンの僕の大きな負担になるのではないかと最期まで心配していたことを昨日のように憶えている。60才以上の従事者が三分の二以上を占めている日本の農業を今後の世代がどう受け継いでいくのか、現在田舎に残された農地は、どう活用すれば良いか、おそらく兼業農家の世帯主は誰しも同じ心配をしながら日々農業に従事していることと思う。そういう意味では、42才まで会社勤めをしていた僕が、突然百姓になる決断をするのは、何かの奇跡か偶然としか考えられないというのも、ある面で大きな事実であり、30代ならいざ知らず40過ぎて低所得で、不安定で・・・かつ、過酷な労働である農業に挑戦することを選択したというのは今更ながら無謀な選択であったのかもしれないと時折思うこともある。

農を生業(なりわい)にしようとした理由は、一つには定年後も仕事が出来るという大きなメリット、そして二つ目には何か日々食している物に違和感を感じ始めていたこと、三つ目には農業をもっと消費者に近づけ、現代社会のビジネスとして成立させてみたい(農業自体は大規模化等で近代化を図ってはいるものの、現代のビジネスモデルになりえているかというとはなはだ疑問であり、各企業が農業ビジネスへの進出を目論んではいるもののまだまだ難易度がありそうだと感じていたので・・・)という野望と四つ目には農業生産者は一人ひとりが個々に経営者であり、その一人ひとりのプロがひとつのネットワークを繋げる事により新しい資本主義(経営者同士のネットワーク、労働者という決して一方的に搾取される対象がいない経済社会)が新たにこの世に提案できるのではないかという期待感を持ったからです。この四つを総合して何か僕に出来ればもっと日本の農業が変わり、自給率も上がり、地方の生活も活気づき、あちこっちの家庭で楽しい会話の溢れる食卓が生まれるのではないかと思ったからです。現在はまだまだ一般企業の定年は60歳ですが、42歳にもなると定年まで勤めてもアト残り18年、せめて6570歳まで勤めたいし、勤めるなら、楽しく仕事したいなぁ、手に技術をつけて人のためになって、将来性があって・・・でも現実は大学や専門学校に通うような時間もお金の余裕もなく、こども3人に普通の暮らしはさせてやりたいし、やっぱり将来性のある会社に再就職し、そこで定年のない仕事をしようって考えたのが転職への大きな切っ掛けでした。食べ物に関してはそんなに拘って生きてきたわけではないですが、何かラインで生産されたようなものを食べさせられているような気がして仕方がなく、ファーストフードのある会社の影響で世界のジャガイモの生産量が変化する…そんな社会になっている・・・子供たちは正直で新鮮なものは好き嫌いなく食べますが、少し鮮度の落ちたものは口にしません、でも、口当たりのいいものはしっかり食べます?が…私たちはあまりにも口当たり(侵された味覚)にだけ照射してきたのではないか・・・と思ったりします。田舎育ちの僕には、どうもスーパーで買ってきたキュウリやトマトは本来の味でないような気がしてなりませんでした。流通業に携わっていた者(百姓をやる前は百貨店勤務だったので・・)が言うのも少々変ですが、小売がお客様と生産者を分離し、生産者も分業化された中で効率を追求した大規模生産を目指した結果、生産者と消費者との距離が計り知れなく遠くになってしまった。でも実はお客様はそんなことを望んでいるのではなく、もっと生産者の素顔が知りたい、〇〇さんはどういう工夫をして作物を育てているのか、どういうところでこの卵は生まれているのか、・・・そんなことをしっかり伝えることを生業にしたビジネスが本来、現代社会では必要なはず。現代社会の大量生産大量消費の資本主義は完全に崩壊しているにもかかわらず、いまだに各企業は高度成長期の幻想に悩まされ成長のための売上げ拡大以外は、経費削減、リストラクチャリング(本当の意味の再構築ではなく単なるリストラ)しかないと思っています。その中で働く労働者は成果主義、やればやっただけといわれながら、なにが公平で何が公正かリストラの分別がついていない、そんな労働者に「経営者たれ!」といっても労働者は経営者になれるわけがなく、『社内鬱はここ5年急増し、予備群を含めると会社員の一割があてはまる(200311月日経・早稲田大学小杉教授)』といわれている。そういう資本主義ではいずれ崩壊する、目指すのは自立した百姓のネットをつくり、つまりプロの集団(百姓はみんなが自営業!みんなが経営者)、経営者の集団が自立した中で協働して組織を運営する集団をつくり新資本主義(INC的な連携の社会)として、農業の新しいビジネスモデルの創出は出来ないものかと考えたのが大きな契機です。テレビ局の視聴率競争にみられるように少しでも高い視聴率を取らないことにはスポンサーがつかない。スポンサーについてもらうためには、ドラマもニュースもコメディも止め処もなく倫理を失う方向に疾走する。バブル当時に大企業の経営者は経営判断を決してすることなく、集団決定の名のもとに無謀な投資をし、バブル崩壊と同時にたくさんの倒産を余儀なくされる。百貨店や量販店には季節感のなくなった野菜が並べられ、子供達からは曲がったキュウリは病気にかかった物だと思われている。いつでもどこでもが誰しも望んでいることだという安易な流通の発想が野菜に季節感をなくさせ、すこしでも輸送に時間がかかってもいいように青い段階からの早採り出荷させてきた市場、収穫や栽培がしやすいものばかりを追い求めてきた農民や種苗業者・・・消費者の欲望を満たすためという勝手な思惑が、おきな歪みを生み出してきた現代社会・・・。

何かおかしい…。退社の大きな切っ掛けをつってくれたのは、グリーンウェイブという会社との出会いでした。本当はここへ再就職するつもりで会社を辞めたのですが、なかなか業績が芳しくなく、自ら事業を起こしたほうが良いといろいろな方々にアドバイスを頂き、通常の流通ルートを出来るだけ使わない農作物の販売チャンネルの模索を先ずはしていくことにしました。そして進めて行くうちにやはり消費者は仲介業者や流通業者よりも生産者と直接繋がりたく思っていると感じ、いっそ百姓になればどうかなあと思ったのがそもそもの始まりでした。単純な話、自分で作ったものを自分が説明をして販売をする、宅配でも良いし、直売所をつかってもいい、出来れば農場までお客さんに来ていただき、一緒に収穫できればお客さんは更にうれしくなるだろうって・・・。そんな発想から百姓を始めたのでした。切っ掛けをつくってくれたグリーンウェイブは土壌活性剤を販売する会社で、肥料を媒介に生産農家と密接な関係を持ち、農業指導をしながら、その生産農家で採れた野菜を消費者に届ける(「おすそわけ」の発想)新しい形のビジネスを模索している会社で、日々おいしい農作物を真剣に育てている農家と量販店や八百屋に並んでいる野菜や果物に疑問を感じている消費者とを直接、ダイレクトに結びつけるビジネスを模索していました。そこで僕が何よりもやってみたいと思ったのは高度成長期に分業化された生産現場と流通、販売をひとつにしてみたい、そして社会の循環(農作物の循環、エネルギーの循環)、更には農業による地方の再生の一翼を担いたく思ったのが本心です。まじめな百姓がしっかり安定した所得が稼げ、なおかつ消費者は美味しく安全で安心した『食』に直に接することが出来る。今、僕たちが口にしているものは本当の野菜なのかなあ、いつから曲がったキュウリがスーパーの店頭からなくなったかなぁ、店頭にいつもある苺はどうしてつくられているのかなぁ、ファミリーレストランは何故毎日380円で食事が提供できるのかなあ、90円のハンバーガーの原価はいくらなのかなぁ、回転寿司のネタはどこから仕入れられているのかなぁ、お漬物っていつからあんな味になったのかなぁと様々な疑問がふつふつと湧いてきて…政府が進めてきた減反政策って正しかったのかなあ、「減農薬」ってどれだけ農薬が減らしてあるの、「有機」ってどこまでの範囲で考えられているの、・・・。いろいろおかしなことが多くなった世の中だけど、僕も含めて消費者ってどこまで真剣に農畜産物のことを考えているのか、でもあまり考えすぎると寝られなくなるから、ある程度にしておいたほうがいいとは思うのだけれども…。

農業もいろいろ調べてみると戦後の間違った農政による化学肥料の多投により、土壌汚染が広がり、化学肥料を農薬の多用で何とか凌いできたものの、でもあくまでも化学を化学で解決しようとする近代農法はもはや限界に達しており、農地が従来から持っていた地力がだんだんなくなってきているというのが定説です。本来なら農業政策自身を見直さなければならない時代に突入しているにもかかわらず、抜本的改革が出来て来ない・・・。高度成長期につくられた仕組み、またその当時から植え付けられた我々の感覚・感じ方はなかなか一朝一夕に変革できるわけがなく、年金改革や医療改革、金融政策、道路政策、教育改革等すべての変革が必要なことはわかってはいるものの、少しでも自分の既得権益は崩さずに、とはいっても子供たちの世代に汚点を出来るだけ残しておきたくない・・・っていう考え方をもっていると何時の間にかみんなが大きな袋小路に入ってしまう。

少し言い過ぎてしまうと、現状の行き過ぎた資本主義は人間の限りなき欲望を暗闇の中でも更に模索し、錆びついたユートピア幻想を露呈した社会主義も国家資本主義と何ら大差なく、われわれは本当に何を信じ何を求めて、何に幸せを感じるのか今一度整理してみる必要があると感じたからということも言えます。

チベットのダライ・ラマ十四世は『社会のあるべき姿は・足りるを知る・・・・』と話しています。勿論、・環境・非暴力はあたりまえのこととして。

自然農法を提唱した岡田茂吉氏や大地を守る会の藤本敏夫氏、有吉佐和子の『複合汚染』は有名ですが、僕の出会った和歌山の山本賢先生も独自に研究を重ね、土をみつめる農業を提唱されています。土に地力をつけさせるのはバクテリアであり、バクテリアが好む土壌をどのように準備してあげるかが農業であると唱えておられるのです。僕たちの仲間のリーダーである柴田さんは「生産や栽培ではなく、農業は食物の育つ環境作りだ。」と明言されます。山本先生は自己の半生をかけた農業研究を惜しげもなく僕のような飛び入りの百姓に教えてくださり、決して何かの見返りを望んでおられるわけではありません。土の中は宇宙であり、土の中の様子を地表から見ただけで判断を下す。そこには長年の経験と感だけではなく、科学的分析の裏打ちがあります。僕は、このような人たちと共に農業が出来ることを誇りに感じ、幸せを感ぜずにはおれず、百姓の世界に飛び込んだ次第です。

その当時、家族に言わせると、「やっぱりサラリーマンがいいよ・・・安定しているもん。」と妻、「私、高校へ進学できるの?」と当時、中三の長女、親戚や友人にも「家族だけは路頭に迷わすな。」「好き勝手なことが出来て、お前はいいなぁ。」といわれはしたものの、何故かみんなに温かく見守られ・・・本当はある面で優しく見放され…。

「百姓の生活は動物に似ている。朝日と共に起きだして、落日と共に家に帰る。何が楽しいのかわからないが、1日が暮れ、また、1日が始まる。」といっていた友人がいましたが、人間はそんなに偉いものではなく、所詮動物であり、欲望を押さえる倫理や足りるを知る精神だけが人間の尊厳ではないのかと僕は思います。但し、こういう思想的な話は他人に強制するものではなく、お互いの気づきの中でわかりあえればそれに越したことはありません。

『にんじんは宇宙だ』と言った赤峰さんがいますが、僕が初めて農場の研修に行った先の山岸さんは「農業は社会であり、食べるものをつくっている過程の中で、土木工事もやれば建築もやる、電気工事もあれば機械も直さなくてはならない。直売しようと思うと運搬もすれば、販売もする。一次産業だけではなく、つくることは出来てあたりまえ、つくったものをどう販売するかが農業の成否の鍵、つくるには化学も数学も物理も必要だけどね。」といとも簡単にあっさりと言われました。あぁ大変。でも歯を食いしばって早く一人前になり、次のステップで現代農業の新しいビジネスモデルをつくるぞ。

消費者は生産者から直接農畜産物を手にしたいと思っているのでは…。と思い始めたことは、僕が農業をやってみようと思った理由の一つでもあります。通常の作物には産地があり、スーパーや百貨店の食品の陳列棚には年中キュウリやトマトがあります。例えばキュウリの産地は6月から11月までが東北、12月から5月までが九州です。北海道で採れたジャガイモは全国に、長野のレタスも全国に・・・。本当は地産地消にすれば輸送コストは大きく下がり、より新鮮なものを消費者は口にすることが出来るのに。圃場で採れた野菜が市場に行く場合は、きれいに土を払い、袋詰して箱詰めして、やっと出荷されます。市場では近郊物と遠地物に分けられ、せりが行われ、全国へ出荷となります。スーパーの店頭に並ぶのに最低三日間、一週間かかる場合もあるそうです。早採りされて、輸送期間中に熟す野菜に従来の糖度が乗っているはずはありません。糖度は最後の最後に圃場で乗るのです。糖度の乗り切っていない野菜を日常口にしているともう感覚が麻痺してきていることにすら気付きません。本来なら、圃場から採りあげた土つきの野菜をそのまま食卓まで運べればそれが一番良いはずなのに。でも実際百姓をやってみて思うことは、多品種少量目の生産はなかなか大変です。野菜や水稲の栽培は、柴田さんの言う野菜を育てるには繊細な注意が必要です、そのいろいろな性格を持っている野菜が圃場に並んでいるのです、土によって(特に排水は大切ですが)、光によって、風によって、育ち方が違うだけでなく、虫のつき方も違うのにも関わらず、畝ごとに育てている作物が違うと通常の三倍も四倍も気を使います。やっぱり一反すべて玉ねぎが良いや、キャベツを一町つくったほうが管理しやすい、そのために更に機械化を進め、大規模化を進めてきたのが、政府であり、我々百姓です。いいことがあれば悪いこともあり、同じ作付けを続けていくと、連作障害という壁にぶつかります。そこで考えられたのが、連作障害に強い種、連作障害を予期した中での農薬の散布です。消費者のみなさんはそんなことを決して望んでいなかったと思うのですが。また、一度にたくさん作ってしまうので、一つ一つを丁寧にお客様に販売することが出来ずに、どっと収穫し、どっとトラックに積み出し、どういうお客様がどういう食べ方をしているか考えようともしなくなってきたのが現代です。かたや自然農法を推奨しておられる方は「連作障害はない」と断言され、同じ土地で同じ作物を計画的につくり、多品種少量目という難関をみごとに突破されています。でも、この農法で育てられた野菜やお米がどこへ行けば手に入るのかわからないのが現状です。僕達は出来るだけ土の中を科学し、植物の育ちやすい環境作りを進めていく中で、十年先、二十年先の地域農業、地域環境を意識した循環型の農業を目指しています。また僕達は、何人かの百姓が共同でネットワークを立ち上げ、多品種多量目を育て上げることを模索しています。各々の持つ圃場の特性を活かし、山間部の人と平野部の人、同じ滋賀県でも寒いところの人と暖かいところの人と少し広がった地域に跨ってはいますが、同じ意識をもった者同士が集い、お互いがお互いを補完し合い、その中での循環型の農業を目指し、先ずは小さなネットワークをつくることにしました。次のステップで農事組合法人を設立し、農事組合法人の目的は・各々の生産農家の収入安定・更なる協働の充実・社会的信用のアップという三つの柱を核に取引先や消費者の皆さんに認知していただく活動の展開をしたいと考えています。一部の人だけの幸せ実現を私達は目指しているのではなく、関わって頂いた人全体の幸せ実現や、関わりたく思っていただいた方々への輪の拡がりへの丁寧な対応をしていきたいと考えています。次に1000人委員会の設立を目指します。構想ですが,800人の消費者と200人の生産者を結びつけ,1000人の中で、顔の見える範囲の中で農蓄作物の流通を目指したいと考えています。誰の作ったジャガイモをどう調理したのか、美味しかったのか,どうすればもっと楽しく食べられるか・・・そんな会話をみんなでワイワイガヤガヤしたいと考えているのです。

農業の経営は本当に不安定です。気候に左右されるだけでなく、量目を販売先にあわせてどう生産するか、どう育てるかは工場のラインではないのでほとんど日々のきめ細かい観察と気配りが必要になります。また人間が管理するからには常に神経を張り、目配せをする、そしてそれ以上に常に平常心でいる必要があります。平常心、冷静さがないことには小さな変化に目が行き届かなくなります。新規就農する際に、農業振興課から頂いた資料の中には、準備資金として12,000,000円必要、実際には14,000千円かかっていると記載されていました。農業をするということは本当に起業と同じだといわざるをえません。でも、投資効果が本当にそれだけあるのかというと決して投資効率がいい訳ではなく、その投資すら回収できずに、やめていく方が多いと聞きます。僕の場合は、兼業農家であったこともあり、農地選びや地元の方々の協力には恵まれましたが、本当に百姓と何の関係もなかった方が農業を始める時は農地を探すことから始めなければなりません。農地選びは大変重要です。なかなかいい圃場にめぐり合えません。いい圃場はいい野菜をつくる第一条件です。でも新規就農の者はいい圃場を選ぶ眼は持ち合わせていません。圃場は自らが作るものといえばそうなのですが、排水の悪いところならば暗渠を入れる等また資金が必要ですし、以前使っていた人が牛糞を入れていたということだけで窒素過多になり、おいしい野菜を作るのには随分工夫が必要です。普段はいいのですが、水害が出やすいところや水が必要な時期に水が廻ってこない圃場も多々あります。新規就農して次に困るのが、何を、どのようにつくり、どこに、どんな方法で売るのかということです。何がつくれますか、といわれても何でもつくります・・・状態なのに、何をどれくらいどの時期にといわれても・・・新規就農者に明確な答えは出来ません。また、仮に売り先が見つかったとしても、その売り先とは一度約束したからといって契約書を結んでいるわけでもなく、売れる野菜が出来なければもともこもありません、売れる野菜が出来たからといっても市場価格と連動し当初予定していた販売価格が維持されなかったり、たくさん出来すぎて、売り先がなく、捨ててしまわざるをえなくなることも多々あります。ですから、まずは自分で挑戦したい品目を決め、ある販売先を想定し、またいろいろな販売手法を身につけておかなければなりませんし、様々な事態に臨機応変に対応する姿勢を、常に平常心で持ってなければなりませんし、最終売り先がない場合は捨てる覚悟も大切です。準備資金を多く持っているから平常心でいられる人もおられれば、持っていないからそのハングリー精神をベースに平常心を維持して頑張れる人もいます。私達は新規就農者にはもっと植物を育てるという本質に神経を集中させてあげたい、就農時にしなくてもいい苦労は出来るだけ避けさせてあげたい。いずれは苦労しなくてはいろいろな活路は見いだせなくても、一度に解決を求められても戸惑うだけで、戸惑っているうちに1年過ぎ、2年過ぎる。それでなくても百姓は孤独な毎日を過ごさなくてはならないのに。私達の組合法人ではいずれは、そういう新規就農者の受け入れ体制も整えていきたいと考えています。販売体制等も従来の流通ではない、直接お客様に販売していく直売という形式に移行したいのは山々ですが、安定するまでの間はまだまだいろいろな苦難が待ちうけていそうです。ただ、私達の強みは根っからの百姓でなく全員が脱サラ百姓であるということです。発想も違えば、いろいろな知人や友人、ネットワーク等も、各々持ち合わせているものが違います。また、いろいろアイデアもみんな違う中、いろいろ出し合い、みんなが対等に議論しあいながら、且つ楽しみながら進めています。また、それぞれの販売先やお客様も従来の百姓じゃないからといって応援してくださる方々も多く、感謝しています。でも、まずは、しっかり美味しいものをつくり、しっかりアピール出来るように育てること、また、その栽培を継続すること、そしてその地盤固めの2004年を迎えるに至ったということでした。

養鶏農家の野田さん家の和子さんがつくるプリンはすっごく美味しい。そのプリンが切っ掛けで山羊の飼育もやってみたいと思っています。本来あるべき姿としてちいさな自給自足の農場は百姓にとっての最も小さな夢であり、やっぱり生き物がいて、そこに動きがあり、匂いがある、そんな風景が人を和ませてくれると感じたからです。知れば知るほど自分でつくってみたい、自分が育ててみたいものばかりになります。どこまでできるかわかりませんが、自分ひとりの力ではどうしょうもないことも、みんなで協力してもらうことも含めて、どこまでできるかやってみたいと考えています。

僕はこの文章を、脱サラして百姓になりたい人だけでなく、いろいろな人に読んでいただきたいと思い書き始めました。百姓の人もOLの人にも、子供を持つお父さんやお母さんにも呼んでいただけたら幸せです。農業ってやっぱり私達の生活とはかけ離れたものであってはならないものだと思います。だって毎日の私達の三度の食卓には必ず食物が並べられ、衣・食・住の中でも食が何よりもベースになっているにもかかわらず、あまりにも私達は食に無頓着になりすぎていた、別にみんながみんな食事毎に微笑みがある家庭の食卓を作り出さなければならないわけじゃないけれど。

たまにはゆっくり食卓を囲いながら、食を楽しむ生活はいかがですか。

昔のよさや食物の持つ本来の味を味覚や視覚でしっかりじっくり確かめながら。

お正月、人生ゲームをしていると「人生ゲームって、本当にお金がすべての尺度になっているネッ」という話をする姪っ子がいました。本当にそうです、アメリカの資本主義の凝縮版が人生ゲームのような気がします。職業やこどもの価値までもを金銭で計れ、ともすると幸せ度も金銭で計りそうな勢いがあります。確かにお金ですべてのものを計りなおせればわかりやすかったり、交換できたりしますが、金じゃ買えないものがある・・・って感覚が大切なような気がします。やっぱり。金本位制と拝金主義のことをわかりやすく説く槌田タカシ教授がいます。お互いが金に縛られることなく、でもお金の重要性をわかりあいながらどうすれば暮らしていけるのでしょう。

何もかもが楽しい。

何が楽しい。

何か人間の原点に戻ったかのような。

狩猟民族なのか、農耕民族なのか、よくわからないけれど。

共に生きる、長い年月のスパンで決して利己的でなく。

でもやはり何かを作り出したり、何かを食したり、何かと関わってなければ非常にわかりづらい・・・そんな世の中で非常にわかりやすいというか、近代というより、前近代というかでもみんなが少しは気づいてきていて、少しはみんなが憧れているというか・・・。そんな仕事にめぐり合うことが出来て何もかもが楽しい。そんな今日この頃です。

 

以下の目次は

種の起源土の中日光と風/植物の環境作り/苗の一生/百姓の損得勘定

流通/販売/農業を始めて/食の安全/ゆとり/出会い/昔/経営

/社会/私たちの望むもの/田舎の時間都会の時間/食生活改善十箇条/

食育/スローフード/人として/感謝/新資本主義/生きる/あとがき1

トキにみえる日本の農業の近未来/土と植物にパワーを頂いて/認定農家?

/槌田劭さん/農業が立ち向かうことになる課題/鳥インフルエンザ/あとがき2

 

 

 

種の起源

百姓をしていると、種ってホント、メンデルの法則にしたがって生きていることを実感します。野菜作りや米作りに関しても何百、何千、いや何万、日本では昔、お米だけで何千種類のお米が植えられていたと聞きます。それぞれの種の特徴を活かしてその地域はその地域なりの工夫をし、その地に合った作物作りに邁進してきたのでしょう。例えば、京都なら京野菜といわれる賀茂なす、聖護院のかぶらに代表されるように原種の種を求めてもなかなか手に入りづらく、野沢菜は大阪天王寺カブが原種だと聞きます。なかなかいい種が手に入らず、結局カブが育たず葉が伸びる品種の種を信州に持ち帰り、カブを食べずに葉を食べる習慣があの野沢菜を生んだというお話です。昔オランダでチューリップ革命があったように現在も種を巡った企業間競争は激しく、アメリカにおいては遺伝子の組換えで植物のDNAに動物や昆虫のDNAを埋め込んだり、種ビジネスを維持するために次ぎの世代が生まれない種(F1品種)が生まれていたりしています。

バイオ技術が進むことは望ましいですが、際限なく進むことは本当に誰にとって好ましいのでしょうか。

アメリカのモンサントは遺伝子組み替えの特許をもとに農村に恐怖を醸し出しています。

遺伝子組み替え・・・百姓にとっては農薬を使わずに育てるメリットが出てきますが、害虫も食べない作物を人間が食べて本当に大丈夫なのでしょうか。

F1品種・・・種無しぶどう等は種が出来ないように・・・されいますが、現在は種が出来ると種苗ビジネスが成り立たなくなるので、百姓は毎年お金を出して種を買うように、種が採れない植物を育てているのです。やがて企業は自分達の開発した品種の保護を求めるようになってきています。種を一般的に交配させなくするために種を生まない(種を作れない)作物を百姓は育て、市場に供給しています。昔僕たちが聞いたのは大きな葉っぱは光合成を促し、花は実をつけるために咲くもので、ミツバチ達は受粉を促進しそれぞれの種の次世代を育てているのだということでした。

もっとむちゃくちゃなのは種自身に放射線をあてて突然変異させている種もあったそうです。実際メンデルの法則に従うと、何千何万の交配を重ね品種改良をおこなわないと難しいのは良くわかり、大変なお仕事だとは思います。でも、自然の摂理に従って我々は生きているのであり、どこまで人為的に操作が可能かという、あまりにも倫理を超えることは望ましくなく、節度ある人間社会の常識が重要になっていると感じているのは私だけでしょうか。

 

百姓にとって科学が敵だといっているのではありません。科学を学び、土を学び、生物の基本を知ることは何よりも大切です。ただし、自然の摂理に逆らってまで、いい作物(作る人、運ぶ人、食べる人の3者にとって“いい”という意味)をつくる必要性は本当にあるのでしょうか。雑草と闘い、暑さ・寒さに負けず、猪や鹿との知恵比べは百姓としてはあたりまえのコンコンチキです。

作りやすく、運びやすく、売りやすく、食べて美味しく、安心できる…作りやすいのは百姓にとって楽な仕事を促進し、運びやすくは一定の箱の大きさに合わせ形の均一なもので、長期間鮮度が保て、単品生産、大量生産、大量輸送が可能・・・、販売する側は見栄えがよくって安いものが売りやすく、そうすればそうするほど消費者は本当の美味しさから遠ざかっていっているように感じます。順序が逆で、まずは消費者に美味しいものを、かつそれらは当然安全・安心できるものでなくてはならないのに、いつのまにか美味しいもの・安全・安心が二の次になってしまっているかのように、感じるのは僕だけでしょうか。地産地消で美味しく・安全・新鮮なもので、かつ、誰がどのように栽培したものなのか、そういうことがわかる素材がいま一番求められているし、そのことから始まる『食育』を私達は考えるべきなのでしょう。

 

土の中

一gの土の中には一億のバクテリアが存在しているといわれています。そのバクテリア達が土を元気にしているそうです。そういわれるとそうだなあと思うのは、山の木々は別に何か肥料を与えられているわけではないのに、何百年と生きています。落葉樹は秋に葉を落し、土に保水性を持たせ、落ち葉はバクテリアの分解によって地力を高めるのに役立っています。針葉樹は冬でも常緑を保ち少ない日照時間でも炭酸同化作用を行うべく努めています。地表は凍りついていても地下まで凍りついてはいません、植物は体内の糖度のアップで体内が凍るの避けています。地産地消が勧められるのはその土地その土地に合った食物をその土地に住む人々は食べたほうがいいという発想です。また、その土地土地に合った植物は他の地域で育ったものよりも日持ちが長い(花でも持ちが違う・・・と言われています)人間の特別な欲求をもつことで、季節はずれなものや、全然その土地では採れない食物を口にしたいと思うだけで、通常、植物は根を下ろした大地から,動物は生れ落ちたその土地で,その土地に存在するものを食するしか通常,食物を入手する手段は持ち合わせておりません。そう考えると、その土地で育つ、その土地の地力を活かして、バクテリアの力によって力のついた食物を食することは私達にとって一番の幸せなのではないでしょうか。水耕栽培等にみられるように土を介さない農業技術もありますが、私は今の農業はもう一度土を見直すことから始めた方が良いのではと思っています。バクテリアが窒素・燐酸・カリだけではなく、微量要素といわれるカルシゥムやマグネシウムを如何に取り込んで植物の体内に持ち込むか、百姓は土の中の養分の変化をしっかり把握し、地表に現れている現象とどう関わりを持っているかしっかり科学する必要があるのです。そんな百姓の育てた食物をその土地その土地で頂く、そんなにありがたいことはない・・・。化学肥料で疲れた大地は、偏ったバクテリアの成育しか許さず、砂漠化を推し進め、近代農業の知識しかない百姓はこれでもかというほど化学肥料を・・・、実はもう既に河川や湖沼は窒素が溢れているにも関わらず。

 

日光と風

小学校の時、学習したように日光は、葉の炭酸同化作用を促進し、空気中の二酸化炭素を植物の体内に炭素を取り込みます。根から取り込まれた窒素は、その炭素と結びつき多糖類やアミノ酸を増加させます。それらが食物の“おいしさ”となります。風がないと害虫や病気にかかりやすくなります。風は分速5m、丁度タバコの煙がゆっくりと流れる程度の風速が最もよいといわれています。葉は裏面から炭素を吸い、体内に送り込む、風がないと葉の呼吸もはかどらない…。かぶらや日野菜等、秋冬野菜は寒風によって茎を赤くし、美味しさを増すといわれています。人間にとって寒い風も農作物にとっては糖度を上げ自分の体を守る大切なのものなのです。言うまでもなく日照時間は植物の生育と大変リンクしています。雨よけハウスのビニールもその劣化で一年目のハウスと二年目のハウスでは大きく光を通す量が異なってきます。それが植物の生長に大きな影響を与えます。なかなか貧しい農家では一年ごとにビニールを変える事は不可能ですが…。

風は、湿度と関係があります、湿気は植物の病気を誘発します。乾かなくてはならない時には、しっかり乾かないと病気になってしまうのです。換気をするためには扇風機を持ち込んだり、天窓をあけたり、工夫が必要になるのです。

「ハウス栽培ですか…、自然じゃないんですねぇ。」と言われる方がおられます。自然とはなにをもって自然というのか、自然とは露地でないといけないのか、遮光したり、排水を工夫したりしてはいけないのか、ハウスの一番の利点は水の管理が出来るということ、ハウスの中に加温施設や二酸化炭素発生装置等がない場合は、ただの雨避けでしかないのです。ただの雨避け、されど雨避け、自然とどう向き合うか、ハウスを使っても露地と同じです。悩むことは。

 

水は大変大切なものです。水稲栽培を行われている農家の方は、夏場に水を如何に保つか、いつも頭を悩ましています。美味しい山水が美味しい米をはぐくむといわれています。トマト栽培は如何に水を切るかがポイントだといわれています、それに対して、ナスやキュウリは水を如何に与えるかが大切だといわれています。それぞれ水は生育のポイントとなっています、与えすぎは根腐れの原因や病気の原因になります、しかし砂漠地帯で植物が育ちにくいように水なしで生きられる植物にもそれには限りがあります。

発芽時にはしっかり必要な潅水も、生育と共に必要な時期と、根をしっかり張らせる時期、むやみに与えることで根の成長を妨げることやひげ根を増やすことに繋がること等、私達は、水をやりながら土地の中にどういう根を張らしていきたいか、考えていかなければなりません。

ハウス栽培では、露地栽培と大きく異なることは、水の調整が出来るということにつきます。ただし、出荷の時期調整で水を多く与え太らせて出す等、無意味な活用の方法をまだまだ行っている近代農業が未だに存在していることは誠に残念でなりません。〇〇の時期には大々的に感謝祭を行うから、ほうれん草を安く出してくれ、たくさん出してくれと言われたり、◇◇生協のようにオーダーをまとめてからとなるとタイムラグが発生するので受注分しかさばけないという理由で受注に見合った仕上げにしなければならないからです。

育てる上での水の管理は、その植物に聞くのが一番です。その植物の表情を朝に夕に確認していると自ずとわかってきます。ただ難しいのはその植物が我侭で言っているのではなく、本当に本音で言っいるのか、いないのか、を見極めるスキルが必要になってきています。子育てと一緒です。

韓国の趙先生は『植物の90%は水で出来ている…私たち百姓は水を売って生計を立てているようなものだ・・・水は大切ですよ』っておっしゃっていました。私自身ももっと水にこだわり、出来るだけ美味しい自然の水をしっかり野菜たちにあげて、おいしくみなさんに食べていただきたいと思っていますが、まだまだ勉強不足です。頑張ります。

 

 

植物の環境作り

植物の育つ条件を如何に整えてやるかが百姓のポイントだといわれています。土づくりにはじまり、土づくりに終わるというほど土づくりが重要ですが、土は一朝一夕には出来ません、堆肥を鋤きこみながら日々丹念に作っていくわけです、サボるとすぐに地力を失います。近代農法の一番の誤りは、土づくりにありました。自然に育てることをやめ、人工的に化学肥料を投入すすることで生産力をアップさせようとする近代農法は一見、農家の負担を軽減し、高度成長に対応し大量生産を容易にしたかのように思えましたが、化学肥料は従来自然界になかった病気や突然変異を生み、農薬を助長しました。農薬によって人間の体内のみならず、環境は汚染され取り返しのつかない事態に陥っているにもかかわらず、政府は国の農業政策を大きく変更することなく、民意にまかせっきり、・・・というより更に悪化させ、工業製品の輸出量を増やすために、農作物の輸入拡大を志向しています。海外から輸入される農作物は国内の農家に直接打撃を与え、国内農家は収益性の高い農作物の栽培のみに今後施策を変更せざるをえなくなり、本当に消費者が求めている農作物が更に消費者の食卓から離れていくことになるでしょう。百姓も考えなくてはなりません、でも、一人で考えていても限度があります。いろいろな栽培方法をいろいろな人と語り合い、自分でも実験をして一日でも早く、満足できる農作物を取り上げる努力を欠かしてはいけません。百姓はよく天候の責任にします。天候は人間にはどうしょうもないものです、でも、天候を予期して行動、リスク回避を図ることは出来るはずです。いもち病が発生しやすい、何故いもちが発生するのか、原因は何か、よくわからないでは、同じ失敗を繰り返すことになります。失敗した…原因の追求、まさしく学者のような探究心がそこには必要なのです。

 

苗一生

苗が決め手です。如何にしっかりした苗を作るかがその作の成否を決定する大きなポイントになります。苗の時代にその一生が決まるといわれています。病弱体質か健全体質か、甘えん坊かおしんタイプか、果実のつき方、膨らみ方、味等、すべてのことに苗の時代の育ち方が影響を及ぼしているといわれています。なにか人間の話のようです。私達も幼少のころの影響をしっかり受けて成長していきます。環境が側面的な決定要因を持つことも多々ありますが、三つ子の魂百までといわれるように、幼少の育て方が個々の個性を築きます。

トマト栽培では、苗の頃に苛め抜きます、寒暖に耐えられる苗作りを徹底して行います。この徹底方法は、養田式と言い、僕は本から学びました。

二月に苗が届きました。苗をもう一度、ポットに植え,再度強い根を作り変えます。期間は二十五日間。三月の中旬には定植です。苗はこどものように初々しく,すきっと背筋が伸びているものもあれば、ふわっとしていて何処か可愛い感じの苗、また少しとぼけた苗、大変わくわくする瞬間ですが,すごく大変な役割が始まる・・・両肩にどすんっと重いものが乗っかった感じを受けます。子供が急にどっと増えたようなそんな感じがするものです。まだまだ二月の中旬はハウスの中といえども息が白いことがあります。朝や夕方,日が沈んだあとは結構冷えます。がんばれ、って思いで、初々しい苗たちを眺め,掛け声を思わずかけている自分がそこにはいます。出来るだけ、丁寧にやさしく育ててあげたい、でも過保護になってはダメ・・まさに子育てと同じ、でもいつも最初は初めてのこどもなので、親としては右往左往・・って感じです。

 

百姓の損得勘定

百姓は江戸時代から生かさぬように殺さぬように・・・そんな生活に慣らされてきました。変なことに損得勘定をもつ割には、根本的な経済がわかっていません。百姓は植物づくりという大きな宇宙と常に対峙しているわりには、社会構造の理解ができていません。植物を育てるためには、ある日は大工さん、ある日はエンジニア、時には科学者や気象予報士、日々市況をみながら出荷の準備をしているお百姓さんなのに、営業や販売の工夫には誰もが億劫になりがち・・・今まで商売は人の仕事、自分は作る人という立場に甘えてきたからなのかもしれませんが、国が政策で甘えさせてきたというか、あまりにも農協に依存してきたそんな風に他産業から入って来た私には思えてなりません・・・。自信のあるものをつくっているのだから、自分で営業できることを幸せに感じないと。でもこれはメーカーにも同じことが言えます、自信のある商品や新開発商材等はみなさんに先ずは知っていただくことと、また知っていただく方法やどう使えはどう便利か伝える方法を常に考えておく必要があります。百姓はもっと消費者と結びつき、共に良いものを育て、互いが利用していくことを前提に、互いに歩み寄り話し合う機会を持つべきです。何か問題が起こるたびに不買運動が展開され、良品でも高ければ売れず、家計内の食費の平均はここ30年間下がりつづけている現状を互いに見つめなおさなければならないのではと痛感します。

 

流通

輸送関連に最も経費がかかります。近郊農業と遠地農業は大きくここで変わってくるわけですが、僕達が本当に求めているのは、地産地消です。一番良いのは圃場まで消費者に取りに来ていただくことですが、仕事中にそんなに頻繁にこられても困ることは事実です。引き売りや宅配が次に考えられる販売手法ですが、引き売りは結構時間をとられます。宅配は非常に便利になりましたが、果采(トマト等)には良いですが、葉物(キャベツ、白菜等)はかさが大きい割には値段が張らず、消費者の方々に2,000円負担して頂いて送料がその半分を占めるということになりがちです。同様のことが遠地ものにもいえます。信州や北海道、九州から大阪、東京に送られてくるのに百円のキャベツでは量が多くならざるをえません。ですから大量生産⇒大規模農業の構図になるのです。僕達も本当は地場消費を目指しているのですが、キャベツを10a植えると1600個になり、1600個の販売ルートを持たない僕達はなんとかいろいろな販売ルートを駆使しなくてはならなくなります。キャベツ、白菜、ねぎ、レタスを2畝づづ育てる方法もあるのですが、おのおの播種時期も異なり、育て方も違ってくるので、日々の観察が難しくなります。消費者は必要な時に必要なものを求めます。一番良い状態でお届けしたい僕達もいろいろなものを常に持っていたいことは山々ですが、なかなかそうは行かないのが実態です。大手のスーパーや生協は全国に産地を持ち店頭に足りない時や近郊にないときは、遠地から引っ張ってきます。それがそもそもの産地政策ですが、いつの時期にも同じ野菜を店頭に並べる為の努力は認めますが、如何に美味しく食べるかを少し忘れてきたように思います。

単品生産・大量遠隔流通は体系化され、完成されましたが、その過程で、生産者には新たな連作障害や生理障害を生み出し、反面、過剰生産による暴落や過剰投資による農民の経営破綻をきたした現実から眼を逸らせてはなりません。

 

販売

営業活動にも経費はかかりますが、新鮮で美味しく安全な食物ならば営業に経費をかける必要はあまりないのかもしれない。地産地消やこだわり野菜は今流通からも消費者からも注目されています。しっかりしたものを育て、少しずつお客様づくりをしていくと営業活動は特段必要とはせずに販売ルートは形成できる可能性すらあると考えています。但し、いろいろな取引先が、一儲けしようと考えているのが現状です、それもあまり汗をかかずに・・・。単純に物を売るビジネスモデルは現代ではなかなか通用しなくなってきています…。いいものであってもなかなか商売しづらいのが現状です。私達は、しっかり汗をかき、手間をかけ、大きな規模を望むことなく一歩づつ歩むことで、百姓のことを充分わかってくださる方々との輪を広げていきたいと考えています。

先ずは『十軒の食卓を満たす会』をつくり、少量多品種の栽培を周年で可能にしたいと考えています。やはり、ネックは三月と九月の端境期です。季節の変わり目は野菜のもっともない時期になったり、異常気象は作物の栽培を急激に早くしたり、遅くしたり、病気をひろめたり、虫の異常発生を誘発したり・・・やはり自然とのお付き合いは大変です。自然に屈服せず、・・・というより自然との共生を目指す私たちは自然にあくまでも無理をせず、適応していく道を選びます。

次に『1000人委員会』をつくり、800人のお客様と200人の百姓を結びつけ、そのメンバーの中での小さな流通を形成したいと考えています。

但し、これ以上のメンバーは増やさないこととします。

無理をせず、限界を超えません。

そして将来は、これらのノウハウはしっかり皆さんにお伝えし、各地方でいろいろな農家とお客様との結びつきが新たに生まれることを支援していきたいと考えています。新しく見出されたそれぞれの地方に合った販売手法を各々が独自に確立していくことが大切なのではないかと考えています。地方地方でおそらく自然との共生の仕方は違うでしょうし、お客様との交流も違う、大切なのはみんなで『食』『環境』『自然』について少しづつ考え、各々が自立独立した中で、自然との共生を目指すことではないでしょうか。けっして争うことなく、競うことなく、自然に、自然に。

 

農業を始めて

農業を始めてやはり、生産や経営という視点では計り知れないものを感じました。だって生命体と接するんだからある意味では、教育とか成育とかの世界のではないのかなぁ。日々そのエネルギーを肌で感じ、ともに成長し、共に笑い・共に悲しむ・・・まさに生き物とのつきあい、それを時間で計ったり、効率で考えようとするとなかなかうまくいかない、そりゃ技術力が上がることはあるけれど、手が早くなる事はあるけれど、・・・。農業は如何に手間を惜しまないか、ではないかなぁ。加工品等を作ってみても経費の足し算だけでは計り知れない世界を感じます。

また、大きくしていくことにも限界があり、自分の手の届く範囲で愛情をかけて育てるというのが、農業の一番言いカタチではないかと思います。『足りるを知る』というか限度を理解するというか、限度を省みず、企業と同じように考えて大きくすることは出来ても、心が通じる範囲が限られているというか、現実眼が行き届かないとやはり品質の保証が出来ず、その品質はマニュアルなんかで表現が可能ではない…。限られた範囲でしっかりしたい良いものを提供しつづける。

粂さんに教えていただいたのですが、桜井さんは『何もない中から物を作り出すのは、農業だけだ!』とおっしやるそうです。そうですよねぇ、普通の生産とは、何かがあって、それらを加工したり、造作したり、化学反応させたり、・・・。でも農業は、ホント何もない中から、植物が生み出していく、そのお手伝いを私たちはさせていただいている、決して人間が偉いわけではなく、決して、我々が支配可能な領域ではない…。と常に感じています。

 

食の安全

BSEから、鳥インフルエンザに至るまで、食の安全が唱えられると同時に不買運動、不信感・・・どうも生産者が一方的に辛い眼にあっているような…。食糧がグローバルに流通するようになった結果、牛肉といえば、アメリカ、オーストラリア、自給率は数%、鶏肉といえば、タイ、中国、ブラジル、自給率は数%。海外から輸入しているから、不安で国内の生産者なら安心ということも変ですが、食に関してはもう少し国内の自給率をあげておくべきではあることは確かでしょう・・・。何かあったときに、輸入がすべてストップし国内の食料品が高騰するのは眼に見えています、昨年の牛肉・鶏肉に関しても輸入価格は一割しかアップされていないのに卸売価格は四割アップといわれています。便乗値上げと安易に判断したくありませんが、ないといわれると欲しくなるのが人間の心理、ないことはないが少し待ってくれ・・・なんか言われると少し高くてもいいから卸してくれ・・・とかいう展開が目に浮かび・・。

牛肉はどこまでの検査が必要なのか、どこまで出来れば安全なのか、必要な範囲を明確に、必要な範囲を徹底することが最も大切でしよう。

鶏肉に関しては比較的短い期間で食しているという事実と脂肪太りを促進する為の飼料に投与される抗生物質の量に誰も疑問を感じないようになっている現代社会にこそ問題があり、鶏卵はゲージの中で生まれ、死ぬまであの狭い空間しか知らない鶏達の卵であり、それらは私たちにとって本当に正しい食べ物なのかどうか、もう一度みんなで考えるべきタイミングにきているのではないでしょうか。

油に関しても、精製方法や処理方法によって“毒”になってしまうものも多々あるようです。

食に対してみんなが関心を持つ、少しは自らが育ててみる、正しい価格について考えてみる、そういう切っ掛け作りになればいいぁ。出来ればみんなで使うものはみんなで作っていければ最高なのに。

 

 

ゆとり

ゆとりとは何か、豊かさとは何か…

お金を持っていることが豊かさなのか、

本当は心の豊かさは心のゆとりのことをいうのでしょうか、

足りるを知る、現状に満足する、みんなに感謝する。

   ゆとりへの最初のアプローチはそういうことではないでしょうか。

次に、ゆとりをどこに求めるのか。

そして、自分のゆとり、周りのゆとり、全体のゆとりへ輪を広げていきたいものです。

 

出会い

こういう業を生業にして、初めて気付くことはいろいろな人が支えてくれて一人一人の人間は成り立っているのだなぁってことと、念じれば通じるというか想いは人に伝わり、必ずかなうというか、その想いへの情熱は決して誰に疎まれることはなく、純粋であればあるほど人と人の出会いを多く生み、結びつきを強くするっていうこと。

なんか自然の摂理を私は今まで忘れていたように思う。

片思いの経験はみんなにあると思いますが、それも大切な想い、でも片思いで終わらせたくないという想いや、自分を磨きたいという想いや相手の人を思いやる想いをトータルで考えると決して自分勝手な想いじゃない想いって世の中にあって不必要なものじゃないし、必要なもの、あっていいものなら皆で『必要だ!』と念じれば、絶対他にも『そうだ、そうだ』といってくれる人がいるし、そういう人の輪を探し、広げることは、決してお金がなくても、インターネットなんかの進歩で全国、全世界に可能になッたと痛感します。

今年一月の末に竹を探していたら、たまたま『グッドタイミング』で竹を切ってくれと頼まれた、誰にも声をかけていなければ何も起こらなかったのに、ある人に声をかけたらある人がまた違う人との話の中で縁と縁を結び付けてくれて、またみんながそこにエネルギーを注いでくれるから、なんかいとも簡単にいろいろなことができていってしまう。みんなの力ってすごい、誰がすごいのではなく、みんなが集まればすごいってことを痛感しました。

そのすごさにみんながもっと気付けば、あまり力まず、ふっと息をして力を抜いて、自然体で、そうすると自然にみんなに幸せが降り注ぐことが・・・。あぁ、幸せ感ってこういう事をいうのかなぁ。

大切なのは深く想う事、永く想い続ける事。

 

昔はお金がなかった。富める人も貧しき人もお金がなかった。お金がないから、物が買えない、買えないから、自分で工夫をして物を作る。または、加工をする。どういう使い方をするかによって、どういう生き方をしたいのかが見えてくるし、周りがそうだったから、そんなに不安になる必要はない。

しかし、現在は違う。お金を持っていないことは人間として失格かのように言われる。働いていないと信用されない。昔は、いろいろなパターンがまだ許されたが、今は画一的になってきている。今後もっと貧富の差が拡がり、さらに自己中心主義に傾倒していくだろう。いま一度昔に戻り…なんてことをいうつもりはないが、少し、もう少し立ち止まっていろいろ考えてみる必要があるのかもしれない。お金も大事、時間も大事、仕事も大事、家庭も大事、友達も大事、自分も大事、では本当に大事にしていますか。それぞれをもっと大事にする生き方を、これからは各々がしっかり考えていかないと流されていても幸せであった時代はとうに過ぎ去ってしまっているのですから。

 

経営

経営で難しいのは、如何に効率よく農作物をお客様に届けるか、うまく育てることが出来ても効率よく売れなければ、保存が利かない作物は捨てなければなりません。捨てないためにも農作物の加工所を作ることにした私達ですが、出来れば新鮮なものを直接お客様にお届けするのが、望ましい姿だと思います。

百姓の経営は、大規模経営に移行していきますが、単純に大きな面積をもっているからといって経営効率がよくなるかというと、限度があります。単純に二十丁の田圃をしている人と、六丁の田圃をしている人とどういう農業をしているかによって収益性は異なります。施設・設備等かかるコストも大きく変わってくるんで、安易に大規模化はお勧め出来ません。単純に管理も大きな規模になるほど細かく出来なくなるのが現状です。野菜もレタスなどの栽培をして(軟弱系統で)、人を雇って(パートオペレーションにして)と考えてしまいがちですが、投入方法や投入のタイミングなど細かいマネジメントが出来ないとなかなか収益は上がってきません.先ずは小さな面積から、しっかりした作物を育てること、そして一歩づつの前進を私はお勧めします。

僕達が考えているのは、経営自身で儲けるというよりは、生産者が適切な価格で販売が出来るのであるならば、企業は必要以上に儲ける必要はないと考えています。ただし、経費を引いて適切な儲けを生むことは、事業の継続性から考えると重要なポイントになります。百姓はひとりの経営者です。経営者である限り、あくまでも孤独です。正しい判断力を持っていないと経営は成り立ちません。経営者であるからには、生産はさることながら、営業が出来、経費管理が出来なければなりません。人任せにしていてはだめなのです。お米は一生懸命作るけれども、販売は農協任せ、味には自信があるけれど、誰と比較して自信を持っているのか良くわからない。大きな施設を維持していくにはコストがかかるが、コスト意識が薄く、今は何とか年金でやりくりしている。将来は息子に農業だけは就かせたくない…。そんな経営者では・・・日本の将来の農業はもうツブレマス。

 

社会

社会は多くの問題をはらんではいるものの、真実をみんなが正しい認識をし、判断は個々人が自らが下すことだと思います。選択肢は多岐に及んでいますが、情報があるようで情報はなく、いろいろな視点からみたいろいろな意見や事実を私達はしっかり知る権利があり、事実を正しく認識した上で、判断していくべきであり、誤った大企業や政府の政策が私達の判断を誤らせるものであってはならないと考えます。そのためには、私達は勉強をしなければなりません、今社会はどういう流れを持っており、日本や地方は何が一番の問題点なのか。農業や地方の産業は何をコアに事業展開をしなければならないのか。複雑系の社会が90年代に唱えられていましたが、決してもう特別な話ではなくなっています。ドッグイヤーといわれて早くも数年経ちますが、一年が七倍の速度で流れていっています。私達はその中で生きているわけですが、何かあれば右往左往し、真実を見失い、暗闇に閉じ込められたような空虚感を憶えることは決してあなただけではありません。私達は、今こそ、自分の立っている位置を確認し、どの方向に向かっているのか、今後はどの方向に歩みたいのかチェックすべきなのです。

 

私達の望むもの

集落営農+担い手組織経営+女性の生産組織+第三セクター(直売・加工施設・交流施設)等の組み合わせ。水稲+野菜+穀物+養鶏 漬物、しいたけ、しめじ、煮物、レトルト 有機肥料・農業資材・苗 等の組み合わせの販売 豆腐+おから+豆乳+乾燥おから+チーズ+ヨーグルト 一口〇円の株主制の導入による全員参加型の株式会社  NPOの創設

 

田舎の時間と都会の時間

田舎にこども達が遊びに来ると、暇つぶしに手持ち無沙汰になってしまうことがある。

遊び方や自然との付き合い方に戸惑う面も、多々あるとは思うが、自然の景色を楽しみなさいとはいわないけれど、大きくは、時間の流れが違うのでそれに馴染むのに時間がかかるっていうことかなぁ。現代のような食生活に慣れてしまっていると、手間がかかってめんどくさく感じるのでしょう。ファーストフードに対して「スローフード」。「ゆっくり作って、ゆっくり食べる」というキャッチコピーはいかがでしょう。

 

食生活改善十箇条

   (幕内秀夫/『粗食のすすめ・レシピ集』東洋経済新報社より)

一、しっかりご飯を食べる

二、発酵食品(味噌、漬け物、納豆など)をきちんと食べる

三、 パンの常食はやめる

四、 液体でカロリーを摂らない(飲み物は水、番茶、麦茶、ほうじ茶等)

五、できれば未精製のご飯(分搗米.胚芽米.玄米)を食べる

六、 副食は季節の野菜を中心にする

七、動物性食品は魚介類を中心にする

八、油脂、乳製品、砂糖は控え目にする

九、出来る限り安全な食品を選ぶ

十、食事は楽しく、ゆっくり、よくかんで

どうでしょうか? 忙しい現代人にはなかなかむずかしいなんていわないで、スローフードであせらずぼちぼち食生活を見直してみませんか?と高雄病院の江部康二(えべこうじ)先生は提唱されています。

 

食育

私達がおそらく求めていくものは、『生産者と消費者が自然体でつきあえる、つつましく安定した姿(農文協論説委員会2004/3)』なのではないかと考えています。

つくっているから買ってくれ。買ってやるから売ってくれ。の関係ではなく、一人一人が生きがいのある健康で明るい生活を営む為の大切な食生活をおくる力の教育を食育とするならば、その食育は地域に根ざし、季節を感じ、人を感じるものでなくてはなりません。どちらも感謝の気持ちを持って望むことが一番です。

また、そういうことがわかりあえる仲間作りも大切です。

食事だけではなく、家族でどう食卓を囲むか、『家庭力』といったものが大切という方もいます。佐藤真一(大阪府健康開発センター健康開発部長)氏は家庭力と同時に“コメ”を見直すこと、二千年を超える『日本人とコメ』の歴史、食糧自給率・水田農地の保全等を考え合わせると、こんなに日本人に馴染んだ食品はなく、身体にいい。全体のカロリー補給でいうと、他のもので摂取するより、エネルギー効率が良く、環境負荷もちいさい。こんな優れものを「飽食の時代」だからこそ、食事の核として取り戻すべきとおっしゃっておられます。

私が研修でお世話になっている守山の浦谷農園の浦谷さんも「難しい話じゃなく、家庭の味、食卓での会話、食べるものへの感謝・・・そういうことが日々の生活が“食育”であり、現代社会から何故かおおきく見落とされてしてしまったもの」とおっしゃられます。

 

スローフード

スローフードはファーストフードとの食文化での違いを訴えています。手軽で簡単に食事を済ます、全世界何処で食べても同じ味…。僕自身も二十年前、香港で食べたマクドナルドのハンバーガーがニューヨーク、東京で食べたハンバーグと全く同じ味、同じ価格(当時はまだ、香港が一番安かったのですが、)には驚いた覚えがあります。マクドナルドが世界の小麦市場を席巻している事実や、吉野家の鮭定食がアルゼンチン沖で捕れる鮭であることに少し戸惑いを感じながら、でも簡易な食事に日々過ごしていた事実もあり、一概にスローフードの提唱は如何なものかと思うのですが、少し考えてみる必要があるのかもしれません。そんなに急いで何処へ行くではありませんが、ゆっくり時間をかけて食事を楽しむ、関係性(島村菜津さんの言葉)を重要視することも文化として必要なのではないかと思います。ふと歩みを止めてみる、ふと立ち止まって息をつくこともそろそろ私達には必要になってきているのではないでしょうか。別に場所を変える、旅行に行く、必要はありません、少しの時間と少しの心のゆとりが人とのふれあいや味や雰囲気を感じる余裕を与えてくれることでしょう。ゆとり・・・心の幅というか、心の間とでもいいましょうか。

 

人として

人間として何が正しいのか、人として特別なんだと思うことではなく、人として倫理をわきまえ、共生を重んじる。たのしさや喜びをもう一度再確認することから、歩みを始める二十一世紀としたいものです。人はあまりにも強欲になりすぎてきました。人だからこそ出来ることを決して奢ることなく、人としてしっかりやりとおす、そんな人として何をなしうるかを私は今後の半生のテーマとしたいと考えています。

 

 

感謝

日々に感謝、人に感謝、食物に感謝

感謝のない人は人として失格という考え方もあるほど、私達百姓は感謝を重んじます。決して自分の力だけでは何も出来ないことを日々感じながら仕事をしているからです。天候に左右されるだけでなく、人との出会いにも左右されます。騙される事も多々ありますが、騙されるのも自分の至らぬところと感じれば、すべてが良し、すべてに感謝、日々の移ろいに感謝し、日々の時の流れに感謝したくなるのが・・・農業です。

何十年と百姓を続けてこられた大先輩が、播種の時はいつも「元気に育ってくれ!」と一粒づつ祈っておられます。決して自分の技術に奢ることなく、決して日々努力を怠ることなく、大自然に感謝して・・・そういう農業を続けたいと思っています。

 

新資本主義

新資本主義で最も難易度が高いのは、個々の経営者がしっかり経営努力をして、常に共に高みを目指し、実際に共に向上している・・・向上とは単に売上高の向上ではなく、収益性のアップや経営の奥行きや幅の拡大、余裕の拡大等をさします。

みんなに余裕が出来て、次ぎの展開をみんなで考え、次世代のベースが作れる、そんな新資本主義を目指します。現代の資本主義は更に成果主義の徹底が図られるでしょうが、プロ野球の選手のように年俸制にまで移行するかというと、そこには難易度があり、個々の成果をみる尺度が各々明確にならない限り困難ではないかと思います。

我々の夢も、一人の落ちこぼれもなく、全員が向上し続けるという点に難易度があります。互いに農業ではありますが、違う分野で生計を立てているため、作付け等での制約を受けない替わりに、個々が個々で独立し、その道のオーソリティになる必要があります。ベースの理論にさらに知恵を付加していくことが、理想となり、継続は力となります。

新資本主義はただの農家の集まりではなく、それぞれ個別の経営者の集まりと捉え、個々の努力が及ばぬ範囲を全員で共にカバーし合い、相乗効果を生み、それぞれの経営にまた良い効果を生むそういう連携、関連、緩やかな繋がりを指しています。

 

生きる・・・それは幸せ

 

あとがき 1

チャーリー・チャップリンはどの作品が最高傑作ですかと尋ねられると、いつも「Next one」と答えたといいます。その道を歩き続けることに満足できれば、真の成功であり、あなたが何を目指そうともたとえ社会からまだ認められなくても、一生懸命その道を歩み、日々の暮らしに満足しているならあなたは成功者である。ということらしいです。私は、農に生きます。大きな目標は日本の農業を変えることです。

現状、日本は、いつ食糧危機が訪れてもおかしくない状況です。国内的には農業従事者はますます減少し、放棄農地が増加しており、自給率が低下傾向にあります。国際的には輸入に頼り切りの農畜産物はいつ輸入制限されるかわからないくらいの世界各地で毎年のように起こっている異常気象や今後も増大しつづける中国の輸入量という要因を抱えています。

日本の農業は国の政策によって脆弱化され、他国に依存せざるをえなくなっているのが現状ですが、本当にそれが正しい姿なのかもう一度みんなで考えてみる必要があります。しかし一方で誰もがやってみたいと思う農業をどこかでしっかり提案し受け皿を設けないことには、日本で本当に政府がいう農業の大規模化・集約化が図れるかというと今の手法では無理だとしか言えません。

私達は先ずは、土づくりから提案したいと思っています。しっかりとした土づくりはしっかりとした野菜や穀物をつくってくれます。ただし、なかなか一朝一夕には無理です。また、1+1=2の世界ではなかなかないので、そこには“気持ち=心”が大切になってきます。・手間を惜しまず、・足りるを知り、・おかげさまの(感謝する)気持ちを持つ人と共に先ずは歩み出したいと思っています。

 

 

トキにみえる日本の農業の近未来

・・・トキの野生復帰の問題点・・・

トキの個体数が減少した原因の一つは生息環境の破壊ですから、トキが暮らしていける環境がなければ、その野生復帰など土台無理な話です。佐渡に残っていたトキを全鳥捕獲してからもうすぐ20年になります。この間に、佐渡の環境がトキにとって良い方向へ改善されたとは残念ながら言えません。

佐渡の高齢化率は3035%と非常に高く、主力産業である農業を担っているのは65歳以上の高齢者です。後継者がいない農家も多く、減反政策とあいまってトキの餌場であった棚田の耕作放棄が進みました。

この時期にトキがよく見られた佐渡中央部の国仲平野と海岸沿いの比較的耕作面積が広い地域では、米の輸入自由化以来、機械化・省力化をはかり競争力を維持するために圃場(ほじょう)整備がすすみました。1枚の田が1haにまとめられ、入出水もパイプとバルブによって集中的に管理されています。

暗渠(あんきょ)排水の導入により乾田化が顕著となり、U字溝による水系の分断は水生小動物の生息を不可能にしました。除草剤の散布と病害虫予防のための航空防除も、この地域では毎年行なわれています。 山が海に迫り、海岸沿いに広い耕作地を確保できない集落では、まだある程度棚田が維持されていますが、ここでも除草剤をはじめとする農薬散布は広く行われています。耕作放棄した棚田、あるいは山の斜面には、スギが植林されました。薪炭林として使われていた落葉樹の林はまだ残っているものの、トキが営巣していたクリやケヤキ、マツ等の大木が少なくなっています。特にマツは、マツクイムシの被害で壊滅的な状態にあります。中国では、トキが順調に増えてきました。しかし、本質的に佐渡と同じ問題を抱えています。日本全体の農業もまさしく同じ問題を抱えているのです。

 

土や植物からパワーを頂く 

土や植物にパワーをあたえているのではなく、逆にパワーを頂いているような気がすることが良くあります。最近、スポーツ選手も観客に向かって「皆さんのパワーをいただき、頑張れましたありがとうございます。」という人がいますが、本当にそう感じておられるのでしょう、私もそんなことを感じることが多々あります。土を触っているだけで元気になる時や植物に声をかけると返事をしてくれているように感じる・・・なんて幸せなんでしょう。

 

認定農家とは?

認定農家は、食管法の撤廃の時期に当初は地域で専業で農業に励む人々へ資金調達の道を開くなどの目的で開かれた制度でした。就農者確保のために、従来の「農用地利用増進法」内の農業経営規模拡大計画を発展させた、「農業経営改善計画の認定制度」のことを指します。  

自らの創意工夫に基づいて農業経営をする者が増えることを目指したのですが、一方で「市町村の基本構想に照らして適切であること」や「コメの生産調整(減反)対策が考慮されていること」が認定基準になっているため、認定を受けたら行政のなすがままに農業に従事していかなければならないという問題点も含んでいます。  

さらに、コメの販売価格低下や減反面積拡大により、認定を受けて借金をして拡大をすればするほど経営が上手くいかなくなるケースも出てきています。農水省が2003年までに30万人の認定農家を目標とするといっていますが、20003月では約15万人という数字になっています。

プロの農家でもなかなか認めてもらえない・・・少し変だなァ、 そんな制度なのです。

 

 

食品添加物

食品を手にして内容をよく読むと、いろいろなものが入っていることはよくわかるのですが、何の為に入っているのか、よくわからないことが多々あります。中には、いったん発ガン性が確認され、使用禁止になったにも関わらず、業界や海外からの圧力で使用を認められているものもあるようです。誠におそろしい話です。

遺伝子に突然変異を起こし、次世代以降にその影響が出やすいものを、「変異原性」があるといいます。淡路島などでも奇形ザルが生まれているといいます。これは、人間に比べて世代交代の間隔が早いため、その影響が早く現れたと考えられます。また、人間の世界でも、流産が非常に増えているといいます。胎児の状態に異常があって、正常に成長できないと、母体を守るために、胎児をカラダの外に出してしまうという働きによるものだそうです。

食品添加物が厚生労働省で認可される際に行われる毒性試験は、1種類の物質だけについてしか行われていません。 現実には、1種類だけを摂るということはなく、複数摂取しています。化学物質同士、または化学物質と食品がカラダの中で反応したときに、どの程度の影響が出るのか、明確なデータはありませんが、まったく影響がないとはとてもいいきれません。

欧米では、かなり以前から食品添加物と子どもの異常行動(HLD症候群)との関連性について研究が行われているようです。 そのような内容を1973年にサンフランシスコの免疫学者ファインゴールド博士が発表しています。また、食事療法(添加物を使用していない食品で、栄養バランスのとれた食事にすること)によって、50%の子どもに改善が見られたという報告もありました。 また、食品添加物の中で多く使われているものに、リン酸、あるいはリン酸塩などのリン化合物があります。 リンの摂取が以上に増えると、カルシウムを体外に排泄してしまうという影響があるようです。リンを使った添加物が多い食品には、スナック菓子、インスタントラーメンなどが挙げられます。 最近の子どもや10代は、立っていられない(すぐに座り込む)、骨折しやすいなどと言われがちですが、まったく関係ないこととは一概には言えません。

 

槌田劭(つちだたかし)さん

『共生』の教えから、自らが『使い捨て時代を考える会』を創設、『安全農産供給センター』を株式会社として運営し、『共学』・・・ともに学び共に教えを頂く、商品ではなく、『考える素材』を媒介にして、みんなで考えることから始めることを提唱されている方です。

「誰がどこで、どのように作っていて、どういう風に仕入れて、どういう苦労があるのか、どんな食べ方があり、何故この素材を扱うようになったのか、生産と消費を分離しないことには多少難易度があり、生産者と消費者のバランスの中で、生産者に申し訳ないので、消費を増やす、そして更には消費者を増やさなくてはならなくなる。また新規の就農者に入ってきていただいても、丸抱えできない生産者は生産量が増えると掛け持ちをし、心通った素材が入ってきにくくなる。季節の矛盾はいいけれど、社会的矛盾(生産と消費の分断・連続性の断絶)を解決する方法がなかなか見当たらない。

今後は金本位主義、拝金主義が豊かさを無くしている、工業化社会は絶滅する、『お金には支配されても、軽視してもならない』ことを教訓に農業生産に取り組んでいこう。

本や耳で学んだことの虚しさを思うことがある。科学的だと信じられていることにも嘘はある。「信じる」という世界は科学技術が「邪教」となっている危険の根拠だ。「百聞は一見にしかず」。自分で確かめ、真剣に生きる人々に接して考えよう。大地に足をつけて生きよう。先ずは自分の食べるものは自分で育てよう。最近そういう心境を強めている。」

 

農業が立ち向かうことになる課題

〇昔からの対決する条件は太陽と水、気温・害虫・雑草などである。草は祖先の頃から敵であった。雑草は決して敵ではない。いわんや虫をや。共に生きることが大切。

〇好天に恵まれてせっかくの豊作になっても、市場価額は非情なもので、出荷した作物が豊作のため安値でたたかれることとなり、作物の出来の良さにも関わらず収益が上がらない仕組みである。市場連動しない顧客づくり、豊作・凶作の場合の対応方法、顧客との連動が大切。

〇最近の農業の特殊な事情は国際的な流通で、輸入規制で保護されているからとて、自由化を求められることとなり、国内の生産価額より遥かに安値での競争にさらされることとなる。工業生産品の輸出が日本の経済の命綱となっているため、国際的な貿易不均衡ということで、農産物もどんどん輸入を自由化させられることとなる。大規模農業で大量に生産するためコストがやすく低廉な価額で流通するため、生産方式に大きな変化を起こさなければ太刀打ちできるはずもない。昔から農家では換金作物を作っていながらいざとなると値段にあまり拘るのは綺麗でないというような風潮があり、商売になるような経営感覚が足りない点が美徳のように考えられていた。これでは成り立つはずもない。厳密に言えば、国の農業政策とそれを食い物にする政治家たちの介在などが一層問題を難しくしている。
←先ずは、国際競争に勝てる農畜産物づくり。特徴があり、ブランディング可能なアイテムづくり。

 次に、各地方にモデル地域づくりを行い、地産地消の具体的な実行。

 そして、具体的農業指導にもとづく一億総農民時代の下地づくりへ。

 

 

鳥インフルエンザ

本当の原因は何か。なぜ、世界的な拡がり、拡大の様相を呈しているのか。

79年前の鳥インフルエンザと現在との違いは何か。

近代化、規模拡大が、鳥を生産ラインのひとつと捉え、各々を抗生物質攻めにすることで、動物本来の力を無くさせたのではないか。人間も同じかもしれない、人間は免疫が出来ることで対処できるが、年々ウイルスは複雑・高度になってきている。私たちも、年々人間力を無くしてきているのかもしれない。

 

あとがき 2

本当に、子育てと同じです。野菜育ては、お米育ては。百姓は。

日々緊張感があり、でも日々楽しい。日々成長を実感でき、日々泣き笑いがある。機嫌のいい日もあれば、少し表情が硬い時がある、まさしく人間と同じです。

逆に人間が同じなのだといえるのではないでしょうか。子供たちが生まれ、成長する。甘やかせると大きくはなるが、病気に弱くなったり、変化への対応力がなくなる。少し厳しく育て、耐えることや喜びを実感できる(感謝の気持ちを持った)心を宿らせ、大人への階段を登る。少しさびしい親心もある反面、成人していく野菜を誇らしげに見つめ、・・・。

こんな楽しい仕事はない。仕事ではなく、生活の一部なのだ。労働と考えると少しややこしくなる。すべてが生活であり、その生活の中に子育てがあるように、植物育てがある。

野菜育て、その環境をつくるお手伝いをする。野菜は個々に語りかけてくれる。動けないのは百も承知、動けないので、動けない中での工夫をする。

私は農を生業に生きていく中で

・足りるを知る  ・手間を惜しまない   ・おかげさま(感謝の気持ちを忘れない)

を常に念頭におき、日々精進していきたい。

                                   続く   2004/11/21

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